母という存在のヤバさ
人間をザックリ乱暴に分けると、論理的な人と、感情的な人に分かれる。基本的にはだいたいみんなその間にいる。4割論理的で、6割感情的、とか。どちらかというと一般論では、女性は感情的で、男性は論理的と言われている。
ところが私の父はロジックを固めてできたようなタイプで(内面はそうでもないのだが)、母は感情を固めてできたようなタイプである。よくこれで夫婦が回っていると思うが、彼らほど成功している夫婦はあまり見たことがない。
そして私はどうやら、父の影響の方を大きく受けている。というか、母の影響を受けて、その反動で父の影響を吸収した。私は感情を爆発させるタイプはとても苦手なのだ。結果として、女性にしては比較的、論理的な思考訓練がされている方である。
その証拠に、日本人男性からは「議論好きだよねw」などと、まったく褒め言葉になっていない言葉を投げつけられたことがある。あれはニューヨークの通りを歩いていた時だ。一気に酔いが醒めたくらい、全然嬉しくなかった。でも、私程度の論理的な思考回路は、米国生活では… 少なくとも、ワシントンDCで生きていくには最低限必要なので、私は特に何か特別なことをしているとも思っていない。ただ単に、「どうしてだろう?」と可能性を考えるのに頭を使うのが好きなだけだ。このくらいの頭の持ち主はアメリカ人女性にはいくらでもいる。
とにかく、色んな側面において、私はあまり母に似ていないと思っていた。
ところが、ついに婚約したあたりから、どうも私は母に似てきたと、自分ではたと気付くことが増えたのだ。やっていること、やろうとしていることが、家で母として存在したその姿や足取りを追うように、自分も母がやってきたことをやっている自分がいる。
- 他人どころか、自分よりも家族を優先させる勢いで、家族第一主義。
- 夫の世話を焼くこと、夫の健康のためには何でもすること(母はやりすぎて勝手に疲れるくらい、愛する家族の面倒をよく見る。愛する家族の面倒をみることに生きがいを見出しているように見える。)。
- 家の掃除・洗濯は、夫が手伝おうが何だろうが、せっせとやる。
- お皿は常に上質で色の良いものを選ぼうとしている。
- 家の中を住み心地よくするためことを常に考えている。
- 庭で野菜を育てる。
- PMSでブチ切れた時には、論理性は全て吹き飛ぶ。1+1が4でも何でも関係ない。
- 食卓でのマナーにはかなりうるさい。
- 食卓に並ぶご飯の彩はかなり重視する。
- (全然その考えに従う気はなかったのに)「規則正しく生活すべし」と夫に言っている。
- カーテンがなければ、買うよりもミシンを買って作りたいと思っている。子供の頃、貧乏だったからだけど、身に付けるものや家にあるものは大半が母の手作りだった。
このままいくと、自分の子供を溺愛しちゃうんじゃないかと思って気が気でない。
大学院を卒業する頃、「主婦になりたい」とアメリカ人の友人に言ったら、「もったいなさすぎる」と言われて、その考えは良くないのではないかと思ったことがある。でも、結婚したあたりから、やっぱり家事をやっている自分が、とても楽しいことにも気づいている。
結局のところ、私にとって母は一人しかおらず、家族運営をする時、やっぱり心のどこかで母がどうしてきたかが私の中のお手本なのかもしれない。
今さらながら、母という存在のヤバさに気付く、秋の始まり。