なくても生きていける言葉
今日は少し前に書いて温めておいたものを。
最近、日本もアメリカも、巷の議論はもうありとあらゆる方向に暴走して収拾がつかないように見えるけれど、そんな時だからこそ、思うことがある。
すごいオネエ
年末、たまたまこんなYouTubeにぶち当たった。YouTubeもオツなものを提案してくるな。
このオネエ、すごい。小学校を卒業した春に新宿2丁目に行き、16歳で新宿2丁目でお店構えてママになったとか、めっちゃやり手の経営者やん!どんだけの才能。しかもインスタも拝見しましたが、めっちゃ可愛いじゃないですか(フォローした!)。2歳年下みたいだけど、お肌の手入れは私より上だわ💧💧💧💧
そして、この動画の中で彼女が最初の方に言っていて、私も強く賛同したいのがこちら。
フツー
「普通は〇〇だよね」という言葉・表現を使わなくなったら、すごく人生が楽になる、もしかすると人間関係もスムーズになる、というところ。
そうではなく「私はこうしてほしい」と言えば良いのだと思う。そして本当は、その方が勇気がいる。だってNOと言われたくないから、「普通、みんなは」という隠れ蓑で自分を守ろうとしてるだけ、正当化しようとしてるだけだから… まぁ「普通」というのは言い訳ですらある。
でも、「普通」じゃなくて、「私は、こうして欲しいんだ」と素直な自分を相手に見せる方が、意外と受け入れてくれる気がする。むしろ「フツー」と言われると、聞いている方はイラっとすることがある。あんたはそうかもしれないけど、私はそう思わないよ?と腹が立つので、その人がどうして欲しいかよりも、その態度、なんなの、という方に気が取られてしまう。
別の言い方の一例として、「一般的にはxxが多いように思う」「自分の周りでは、xxという話をよく聞く」と言い換えてみると良いかもしれない。
べき
こちらは動画では話していないけれど、「普通」の延長にあるやつ。そして彼女も動画の中で「べき」と一度も言ってないと思う。これは注意してないと、意外と結構すぐ出てしまう。
- 時間厳守すべき
- 〇〇について、XXすべき
- 国家は斉唱すべき
- 不倫はすべきじゃない
ふふ、2つほど、地雷を踏みましたかね。
うん、でも敢えていう。「べき」というのは、本当は、「私の周りの人たちに、こうして欲しい、みんなでこうできたら理想的だな、こうであって欲しいな」という自分の気持ち・願いでしかない。そこに「みんなもそうだよね?」という、自分の価値観に同意してくれることへの期待が根底にあるから、「べき」になるのだろう。
でも多様性を認めれば認めるほど、他人と自分の自由を許容すればするほど、異なる考えの人はいるわけで、個人レベルでは喧嘩を、国家レベルでは戦争をしないためには、その人たちとうまく妥協点を見つけていかなければならない。そんな時にベキ論を振りかざしても、相手を説得することはできないし、妥協点を見つけようという気にすらならない。そして今の分断されたアメリカのように、自分と価値観を同じくしない人たちに怒りすら覚えるのだと思うけど、それでは誰も幸せにはなれない。
そりゃぁ私の夫には(いや自分もか😂)不倫しないで欲しいなと思うし、モヤモヤせずに胸に手を当てて国歌斉唱できるアメリカ人を羨ましいなと思ったりする。でもそれを「すべきだ!!」と言っても、何も解決しない。だってそれは私の、私が知っている範囲の周囲の人の価値観だから!多分賛同する人もいるだろうけど、全員がそう思わなければならないわけじゃないし、何より、押し付けても他人の価値観は変えられない。そしてそれでは、多様性にならないではないですか。
「べき」は「普通〜」の延長。その論調・トピックにちょっと箔をつけただけで、アプローチは同じ。
オネエの奈々さんも、動画の中で常に「〜して欲しいなと思います」という表現をしている。
そんなわけで
「べき」と「普通」。この2つの言葉、なくても生きていけるし、他人にぶつけるのをやめたらきっと、自分にも他人にも優しくなれる。そんな気がしています。まぁ日本語でも英語でも、意外とよく使う機会はあるので、場合によって使ったとしても、これは自分の希望でしかないのだ、ということを心に留めておけば、その前後で自分の口から出てくる言葉や表現も変わってきそうな気がする。
動画では色々と心に残ることをおっしゃっているので、ぜひ見てみてくださいね。最後の、幸せワークも、ちょっと自分あかんな、と思ってる日などはやってみたら良さそう。たまたま何故かYouTubeで見つけましたが、どこかで会って話してみたい、素敵なオネエでした。
今日はアメリカは水曜日。今週もやっと後半戦ですね。
良い1週間を… そして、素晴らしい人生の1日を。