アメリカで子宮筋腫の手術:その4(回復への道のり)
ここまでの話はこちらから。
手術後は、ゲロゲロに吐き、夫氏も「泊まりたければ泊まって良いよ」と言ってくれたにも関わらず、ナースは何故か「退院してよし」の言質を医者からとってきた。なぜだ。その基準は何なんだ。まぁ、別に血圧がどうとか、そういう危険な状態ではなかったけども。
で、夫氏の運転で高速を飛ばして30分、夜中の11時半ごろ到着。
午後1時半からの手術で、2ー2.5時間くらいの手術だから、まぁ夕方6時ごろには帰れるかしらなんて思っていたのは、大外れ。しかも手術を甘く見ており、夫氏と、「帰りは、ちょうどアジア料理が美味しい地域だから、韓国料理を食べようか」なんて話していた私ってば・・・
韓国料理どころか、もう階段も一歩一歩フラフラと夫の支えで歩けるか歩けないか、くらいで、家に到着するなり吐く状態。猫がビビってました。でも、夫が私を支えながら、「君はよくやってるよ(You're doing great!)、そうだ、一歩ずつ」と優しく言ってくれた声は、今でも耳に残っている。
回復の道のり
だんだん長くなってきたので手短に。
- 翌日:ほぼ記憶なし。多分痛み止め飲んで1日寝てた。が、洗い物はした気がする。夫氏のおかゆとヨーグルトで生き延びる。
- 2日目:ツイッターをやるくらいの元気は出た。教えてもらった経験者のブログを読み漁るも頭痛と腹痛でほぼ寝てた。すぐに疲れる。確かこの日に頑張って便通は恐る恐るできた。夫氏が買ってきてくれたヨーグルトとトルティーヤスープと胡麻煎餅(多胡麻)でやり過ごす。カネフク製菓、ありがとう。
- 3日目:起き出して、何かしようとするも頭痛で何もできず。腹痛は痛み止めを飲まなくても良いくらいになった。朝はお餅、夜はミートスパゲティのソースを作って、ドキュメンタリーを数本見れるくらいに回復。流石にシャワーした。
- 4日目:流石に何もできないのが嫌になってきたので、何とか頭痛を誤魔化しながら、掃除や電話や細々したことをやる。ちなみに傷口はまだ閉じてはいないのもあるけれど、何より、サックリ切られた傷口の周へんが紫と黄色のあざになっているために、余計におどろおどろしい傷口に見える。夕方はミートスパを食べた。夫氏と手をつないで、ゆっくり近所をお散歩。
- 7日目:仕事開始。お腹の傷口はほぼ塞がった。モリモリ食べるも、手術前に比べて1.5キロ痩せてた。でもまだお腹は鈍痛はあるし、筋肉を切られてお腹を支えられないのか、重力に負けてサックリ切ったすぐ下がちょっと痛い。お通じは普通。クシャミと咳払いはまだ鬼門。
- 10日目くらい?:切ったところが早いところはかさぶたになっている。かさぶた周へんがかゆい。
- 12日目くらい?:かさぶたが取れてきたのもある。
- 14日目:まだ切ったところを押せば痛いけど、もうだいぶ普通。先生にも「運動してよし」のお墨付きをもらう。ちなみに、妊娠は理想は6ヶ月後からだけど、「若いから3ヶ月後でOK」とのこと。一番大きな切り口もだいぶ「古い傷」の雰囲気になりつつある。
予想外案件
- 傷跡:手術の翌々日に鏡で見たら、実は6センチくらい切ってあって驚愕。夫氏によると、当日、執刀医が「5−6センチは1箇所だけ切る」と言ってたらしいのだけど、なぜか記憶にない。5ミリじゃなかったんかい… だいたい、5ミリなんて1つもなく、8ミリからほぼ1センチの傷が残っていた。ちなみに、後で(笑)調べたら、いくつか切り口のパターンがあるらしく(下図)、私のは左の孔式でやろうと思ったら途中で無理になって、真ん中の下の切り口も追加した、のではないかと思う。。。
- トイレ(便通):そんなわけで下腹が6センチくらいザックリ切れてるとなると、便通が厳しい。気張ったら、パッカーっと傷口が開いてしまいそうで、お腹に力を入れられず。トイレに、squatty pottyという足置きがあったので、実はこれが役に立った😂。
- 体力の回復:いや本当に、もう当日は夕飯韓国焼肉食べようぜって言ってたくらいに甘く見ていたので、まさか数日はすぐに疲れて何もできないなんて想像もできてなかった。Twitterのフォロワーさんから「開腹手術と同じですよ」と言われてはたと気づいたくらい😅。でも4日目にはかなり回復。
- 切除した筋腫の数:最終的にいくつあるのか知りませんが、なんと、巨大ポテト2つに加えて、3つの小芋もとってくれたのだとか。合計5つ!手術前は「1つだけになるかも、開けてみないとわからない」と言っていたので、大漁で若干嬉しい。
ま、ザックリこんな感じです。
人によってそれぞれだと思いますが、44歳半ば、超健康児(子宮筋腫と交通事故の後遺症の頭痛を除く)の場合はこんな感じでした。この後、術後2週間後、そして6週間後に執刀医に面会することになっています。
最初は、吐きまくったのとお腹の切り口の大きさにショックを受けて大騒ぎした気がしますが、4日も経つとちょっとした怪我が治りかけてる時とおんなじような感じで、今は人生の次の課題に心の照準を合わせつつあります。
長くなりましたが、これから手術する誰かのちょっとした参考になれば!
アメリカで子宮筋腫の手術:その3(手術直後)
子宮筋腫があまりに大きくて色々と支障が出ていたので、切ってもらうことにした。その第3話、手術直後編(これまでの話はこちら:前座編と当日編)
抵抗不可
手術室は蛍光灯がもう天国かってくらい点いていて明るい💡。毛穴の奥まで見えてしまいそう。
そこにスタッフが4−5名ワラワラというるので、さっさと終わらせたい私はなぜか、「皆さん、準備できてますかぁー?(Are you all ready?!)」とかシャウトしてました。何をハイになってたんだろう…多分怖かったからに違いない。いわゆる、お腹のところだけがオープンになっていて執刀医がいて、なんかメスとかナイフ類が並んでいるのが視界に入って…という手術は大人になってから初めてで、正直いうとビビってたのだと思う。
で、ワイン3杯分の麻酔🍷🍷🍷で行くわーというスーパーマン麻酔科医に「3杯分?(多くね?)」とか言ってる間に意識は消えた。抵抗不可。
術後
そして気がついたら、術後の部屋に移動し、なんかいかにもなアジア系のナースが私の名前をキツめに呼んで起こそうとしている。私の手術が終わったのは6時で、手術が長引き、既に8時だとかで、雰囲気的に「こいつはいつまで寝てるのか」という感じが伝わる。私もナースがいない間、なぜか顔面のマッサージをし、声がちゃんと出るかなどをチェックしていた、、、気がする。
が、結局起きれなかった。
私を起こすために夫氏まで連れてこられたものの、麻酔から覚めて立つことができない。自分で立って、トイレするまでは退院させられないんだそうだが、私はまず立てる前に、病院に響き渡るような低い恐ろしい声で
げええええええええええええええええっ!!
と吐きまくった。
正直、吐きそうな中でナースがペチャクチャ喋っているのはうるさかったのだけれど、これで部屋は静まりかえってしまったくらいの雄叫び的な吐き声になってしまった😅。
結局吐き袋はその日、6つ使った。
考えてみると、①手術直前に3種類の痛み止め、②麻酔薬(ワイン3杯分)、③手術後の痛み止め(フェンタニル)、④手術後の痛み止め2(オキシコドン)、と劇薬をアメリカ人サイズでガッツリ体内に投入されていたのだ。特にフェンタニルとオキシコドンは、今アメリカで蔓延している麻薬中毒の原因になっているやつで、非常に危険な薬である。オイ。そして私は150センチなのだ。世界標準でも小柄と言える小柄なのだ。なのに、空きっ腹にそんだけ麻薬を注ぎ込めば、吐くに決まってる。前夜から何も食べていないので、吐くのは術後に飲ませてもらった水やジンジャエールや胃酸だったけど、手術室で2回、トイレで2回、病院の玄関で1回、家についてから1回、全部で6回吐いた。
ここでの教訓として、次回からは、私はオキシコドンとは相性があまり良くない点は病院に伝えようと思う。特にアレルギーなどはないのだけど、強い鎮痛剤であるオキシコドンを摂取すると吐き気を催すことは学んだ。そして私はオキシコドン中毒とは無縁になると思う。
そして最終編へ↓
アメリカで子宮筋腫の手術:その2(当日)
アメリカで子宮筋腫の手術を受ける話の第二話(小説かよ笑!)。
前回までで前座までは書いた。
その後、手術の10日前までに、手術前検査(Pre-operation check = "pre-op")を受けることになっており、家から徒歩で5分のお医者さんのところで、血液検査などをやってもらう。この検査は手術を受ける病院でもできるし、いわゆる主治医(プライマリケアドクター)に診てもらって、そっちで情報を共有してもらう、というのでもOK。
前日
「前日は、真夜中で食事は一切打ち切り。飲み物は手術3時間前までで打ち切り。」というのがフォント26くらいの大きな文字でレターにしたためてあったので、日本人よろしく真面目に遂行。前日は大量に水分補給しておいた。
ほいで当日
夫氏の運転で病院へ。手術は1時半からなので、2時間前到着ということで11時半に到着し、名前を登録したら、そのままサクサクと手術準備室へ。夫氏も一緒。いわゆるガウンに着替え、ベテラン看護師のベスさんと談話。
アメリカの病院で幽霊を見たりするのかなど聞いてみた(余裕)。幽霊は見ないけど、人が亡くなった時に、この世を去る決意をする人の存在を感じることはあり、話しかけたりはするんだそうだ。
ちなみに、突然生理が早まって来てしまい、全部脱ぐのは良いがこの事態はどうするんだと聞いたら「ビクトリアーズシークレットのがあるわ」と、やや伸縮性のある仮のショーツと生理用品をくれた。「ビクトリアーズシークレットは、医療品も手がけてるのかー」とか思ったけど、あれは多分おばちゃんのジョークかな😅。
で、この後、執刀医と麻酔科医が来るって話が、来ない、来ない。
もうこちとら準備できてるんですがね。
やがて執刀医である、セカンドオピニオンをもらったオルソン先生が来て、「4箇所の穴を開ける」と仰る。
え?え?ええええ?
「腹腔鏡は小さな穴を開けるだけだし」の一言でOKしてしまった自分を小さく呪う。いくつの穴を開けるのかまでは聞いてなかった…。😅 でも今さらジタバタしたところで何にもならない。既に手術準備室でガウンの下はパンツいっちょなのだ。
そもそも、子宮筋腫は私が今人生で抱えている問題の中で一番小さい問題で、正直言ってあまりこれに時間を割きたくなかったので、調べもしなかった。いや調べる時間とチャンスはあったのだけど… 調べたところでどうにもならんし、という気もして調べていなかったのかもしれない。
で、なんかウロウロしてる、スーパーマンのマークのついた頭巾を被った黒人のお兄さんいるなーと思ってたら、それが実は麻酔科医で、彼は今まで何をウロウロしてたのか知りませんが、麻酔の話も何か聞き、それからネパール人の看護師さんのスーリーが来て、私を手術室に運んで行った。既に時刻は1時50分くらいだったと思う。
そして手術直後は… ↓
アメリカで子宮筋腫の手術:その1(前座)
…なんて別に特別な話でもなんでもないのだけれど、とはいえ、Twitterでフォローしてる方のブログを読んでいてなんだかとても心強い気がしたので、私も書いてみる。
全45回。
そもそも
子宮筋腫はもう5年… 下手すると10年くらいはお腹にあったかもしれない。でもせっせと通っていた産婦人科(=GYN)には「大きくなってきたら考えましょう」で済まされてきたし、まぁ別に特に今すぐ何かしないと、という気もしてなかったので、長年放置してきた。
ところが、自分的な観測としては、例の不妊治療後から、急速に子宮筋腫が大きくなってきた気がする。不妊治療を一旦停止してからも明らかにお腹が大きく妊婦のように膨らんだまま、くの字のウェストもどこへやら。で、GYNに行ってみたら、「大きいので10cmのが2つあり、それ以外にもある」けど、「妊娠したいなら、お腹は切らないに越したことはない。半年後にまた様子を見ましょう」とのこと(1月)。
ですがですよ… 不快感は大きくなるばかり。だんだん早朝にも不快感で目が覚めるようになってきたし、常に鈍痛が続く。だってよく考えたら、子宮そのものはレモンくらいだって言うんだから、レモンの隣にじゃがいも2つ、それ以外にも小芋が内臓を押しのけて成長してるってわけでしょう?不快じゃないわけがないですか。
で、夫のススメでセカンドオピニオンをもらいに行きました。最初の先生は60代のおばあちゃんでしたが、今回はわざと若めの30代と思われる先生に。すると、子宮筋腫にも色々種類があり、「子宮の外についてるやつ(下図参照)を腹腔鏡で切除するなら、子宮そのものを切るわけではないから、妊娠への影響は少ない」と言われ、どっちにしろリスクはあるとしても、後者の方が納得がいくと思ったので、サッサと切ることにしました(5月末)。Laparoscopic surgery(腹腔鏡手術)なら、切り口も5ミリから1センチとかそのくらいって言うし。
そこで、まずは指示に従ってMRIで具体的な子宮筋腫の数と位置を調べてもらい(6月半ば)、その後はもうそのまま電話とメールで話が進む。おお、なんか簡単なんだな。病院側は、医療保険に医者の承認を提示し、医療保険の方でいくらになるのかを算出し、その情報と一緒に病院から手術の予定日を決める電話がかかってきた。
最初の提案日は、今参加しているクラスの最終日の前日だったので、そこは流石に保守的に見てやめておこう… と言うことで、翌週を依頼。してから10日後くらいに、「どーなりましたー?」とフォローアップ後、手術は8月30日に決まった(アメリカの事務方はほんと放置が多い。いや、多分日本的には放置に感じるだけかもしれないけど)。
ちなみに、当然ながら上記の図にある「漿膜下筋腫」とかも英語で言われるわけですが、毎回「は?」となって英語で説明を受け、家に帰って日本語で調べて自分の理解で正しかったことを確かめておりました。多分ね、こういう専門用語、日本語で言われても「は?」だと思うけどね・・・笑。
そして当日はこちら↓
交通事故から10年
10年前の8月下旬、確か25ー26日あたり。
私は交通事故に遭い、頭を強く打って頭の中で出血し、胸骨も折った。
それがついに10年。
アメリカでの交通事故はなかなかの地獄で、後遺症の激しさから、もう仕事は廃業だろうなと思った。その後のゴタゴタも大変で、多分人生で最も厳しい選択肢を迫られた。とにかくここまで追い詰められたことがないくらい追い詰められていたし、どこにも答えのない、誰も正解がどこにあるのかわからない、未曾有の経験を通過した。本当に追い詰められていたと思う。
それがですよ。
10年後。
当時予想した通り、まだ結局、後遺症はあるのだけれど、それでも、この地球上で最も愛情の深い、誰よりも私の本質を見抜いた上でその長所も短所も全部愛してくれる、尊敬してやまない素晴らしい人と支え合って生きていくことができ、やりたいことに挑戦しているなんて。
その時は想像できませんでした。
本当は「後遺症もないし」って書きたかったんですけど、昨日は実は8時間ぐらい続くひどい頭痛で何もできませんでした。残念。でも、「それは、交通事故の教訓を忘れないように、リマインダーなんだよ!」と友達が教えてくれました。何それ、すごい良い考えじゃん!そういう友達がいてくれて、私、まじで幸せ者じゃないですか。✨💖
まだまだなんですけど、それでも10年前に比べて、人に感謝することができるようになった。他の人の人生について思いを巡らせることができるようにもなった。多分、これ以上できないくらい、夫を愛しているし、それを行動にして、言葉でも伝えている。
もうね、感謝しかないやんけ。
交通事故がなかったら、後遺症がなかったら、もっと人生は楽だったと思う。
でも、おかげで得た強さと幸せはそれ以上だと思うのです。
もし今、人生のどん底を通過中の人がいたら、もしももう誰に相談して良いのかすらわからない状況だったら、きっときっと、希望はあると信じて欲しい。
もう真っ暗で何にすがって良いかわからないとしても、絶対に希望の光は見つけられる。
きっと起死回生できる。
絶対に、このどん底は次の章に移行していくための過程であって、きっと次の章には、予想もしなかった素晴らしい瞬間がいくつも待ってる。
そしてその力はあなたの中にある。
どうかそう信じて欲しい。
そう願っています。
本当だよ。
その後夫氏の食育と料理の腕前はどうなったか?
私は密かに2020年、結婚してすぐに夫氏の食育、そして料理術の向上に手をつけている。今日は、それが3年半経ってどうなったか、ご覧に入れましょう。
これまでの歩み
まずはこれまでの歩みをどうぞ。
2020年9月には、「野菜も一緒に食べないとダメだよ!」という味覚道の修行の結果について書いています。
2020年10月には朝ごはんを作ってくれたらしく…
2021年1月にはブルーエプロンでの修行の効果を書いてますね。
そしてかれこれ3年後。
3年後、彼はどうなったかと言いますと・・・
こちらはステーキ🥩。
相変わらずお肉は大好きですが、今回はちゃんとほうれん草のソテーとポテトをつけてくれました!!ついに、普段から、一回の料理で、複数の料理を作れるようになってきました。ポテトは残り物だった気がしますが、残り物も上手に組み合わせています。
私は伊勢海老はキライなので食べませんが、セールになってたのを見つけてきて、随分美味しそうにできています!
こちらが最高傑作です。
コーンビーフは自分でシーズニングして数時間かけて焼いているし、お店で買ってきた肉団子にはソースをかけ、茹で野菜を添え、さらにアスパラとレンティルのスープまで!
ここまで来たら、栄養バランスも見た目の配色も、3年前の
「白ごはんの横にステーキどーん!以上!🍚🥩」
という、白茶色時代からずいぶんと向上しました。
茹で野菜を作るのは私ですが、先日なんぞ、
「野菜作ってくれる?なんか最近は、なんか野菜がないと落ち着かないわ」
との発言まで飛び出しました!!🍅🥒🥦🥕🥑
わ〜3年半かけて、ゆっくり気長に食育しつつ、栄養バランスのあるご飯を食べたくなるように洗脳(笑)してきた甲斐があるじゃーん!!!もう妻、ガッツポーズ!!
色々あって、彼は今、痩せなければならないこともあり、どういうものを食べたら良いのか、自分でも考えるようになったみたいです。
しかもね。
彼がスーパーに買い出しに行って、料理もしてくれるんですよ。
私は「ご飯まだ?今日は何?」と聞く側です(皿洗いとキッチン周辺の掃除は私が担当ですが)。
うふふ。やったぜ!
時間はかかりますが、すこーしずつ、彼が料理は担当してくれるように、お願いしつつ支えてきた甲斐がありました。そして彼も色んな状況を加味して、自分でできることを頑張ってくれてるんだろうな💕
カギは、
1)自分のイメージ通りでなくても不平不満を言わない、
2)絶対に褒める、
3)絶対にありがとう(+キス)と嬉しそうに言う、
の3点を辛抱強く繰り返したことかと思います。もちろん、私もせっせと私ができる貢献をしてますが、彼が料理を担当してくれるようになって、だいぶ楽になりました。
加えて、私たちは、
1)食べたい時に食べたい方が勝手に食べる。時間が合えば一緒に食べる。
2)自分が食べたいものがあれば、勝手に作って食べて良し
という暗黙のルールがあるので、色々と楽ちんです。
きっと彼も私を数年かけて教育してるでしょうが(教育されてるの知ってるし笑)、こうやってお互い助け合って夫婦をやっていきたいなと思っています。
結婚するまでに必ずやっておきたいこと
最近、なかなか書く時間がとれないくらい、千手観音どころか千手足観音くらいに人生回してまして。てなわけで、若干音無しの構えになっててごめんなさい!
確実にくる危機
でですよー。
結婚したい相手が見つかったら、「結婚するまでにやっておきたいこと」。
これはですな…
あんまり人それぞれ、てことはなくて、結構全員に当てはまる気がするんですけど、
「ヤバい状況、困った状況、お互いに意見がぶつかる状況」など、何かしらネガティブな空気が流れる状況を二人で経験しておく、のが大事なのではないかと最近思います。
というのは、友情でもそうですが、絶対に確実に「えええ!??」という状況は人生において発生する。外的要因、つまり自分たちはうまくいってても、周りが拗らせてきたり(義家族とか、友達とか)、大なり小なりの事件事故に巻き込まれたり、リストラがあったり、ということはいくらでもある(戦争が起こっちゃった国だってあるわけですしね…)。また自分達同士が、外的要因によって不機嫌になったり不安定になったりして、お互いに気まずくなることもある。義家族の行動について、意見が一致しなくて対立することもあるかもしれないし、子供の教育方針かもしれないし、家事分担やお金の使い方かもしれない。
とにかく、結婚前はバラ色で染まってたとしても、絶対にお互いに動揺するような事態は確実に発生する。賭けてもいいくらいですわ。
その時になって初めて、「え?こういう人だったの?なんで??!」となると苦しい。特に外部から問題が持ち込まれた時、一緒に戦いたいのに、まさかの夫とも意見が対立してたんじゃ、大変!え、うちらチームじゃなかったの!?って孤独を感じるなんて辛い。
だから、結婚前に何度かこういう事態が発生すると、
「一緒に戦っていける相手かどうか」や
「この人は厳しい事態になった時、どういう風に対応しようとするのか」
「どういう価値観の人間なのか」
を観察することができる。これはすごく貴重。取り乱した時こそ、その人の本音は現れる。そして、何かあっても、二人で戦える自信があるのとないのでは、雲泥の差。
幸い、私たちカップルは付き合うことになった瞬間から、まぁまぁ外部から持ち込まれるドラマが多くてですね…😅 お互いを信じるしかない事態に何度も放り込まれているため、もはや同志であり、お互いの戦い方はよく知っている。
でも、たまに私も不安になることがありまして(ってかPMSゾーンだったし…)。昨日は私の中にこんなモンスターが…😰😱😱😱😱ってのが飛び出しまして。あれはマジで忘れて欲しいんだけども🙏、とにかくキレ過ぎて一瞬だけゴジラに変身してしまいました。マジでごめん。いや本当にすまぬ(→でもまだ本人には謝ってない😅)。もう号泣ですよ。
結局、とことん泣きじゃくりながら話し合った結果…
「どうしようもないほど愛してる」という告白を受け、「君さえいてくれればいい」という言葉を聞いて、幸せで死ぬかと思いました。愛されてるのは知ってたけど、やっぱり言葉にしてくれると嬉しい。今度は嬉し泣きで泣きじゃくるというどうしようもないやつでした。もう一回恋に落ちました。はい。まぁその前に「あなたのためなら死んだって構わない」とブチキレながら最初に告ったのは私ですが。アハハ😅。
私がここまでキレッキレになるくらい、追い詰められているような時にでも、冷静さを失わず、最後まで話を聞いてくれる相手じゃなかったら、私たちの関係はとうに崩壊してる。それくらい、過去数年間、何度も何度も危機に晒されてきたし、今もかなり厳しい状況を二人でタッグを組んで切り抜けている途中。
時間は必要
まぁでも、危機的状況って自分でわざわざ作り出すものではないですわね。ところが、数ヶ月付き合っていくと、何かしら起こる。結婚前までにある程度少し時間をかけた方が良い理由はこれが一番大きい気がする。逆にいうと、時間が経てば必ずガタピシは来るということだけど。
アメリカは独立記念日の連休!🇺🇸🗽🍔
みなさま、良い週末を。
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